1975年の『an・an』にまみえる!

ミニレオ1号です。どーもです。

打ち合わせ先で、とんでもなくお宝な雑誌を見せていただきました。

この頃は『ELLE JAPON』と誌面提携を結んでいました

『an・an』1975年12月5日号です! 残念ながらデジカメを持ち合わせておらず、しかも今どき200万画素程度のケータイでの撮影だったので不鮮明さはなにとぞご勘弁。

この号の旅特集は『北陸の小京都 越前大野』。「43人に出会った1週間の滞在旅行」と銘打った、最近の旅雑誌でもこうはいかないだろう的密度の特集です。よくもここまで根掘り葉掘り取材したものだ。

今の『an・an』からは想像できない旅特集です
特集の扉ページ。すでに、京福電鉄越前本線 勝山-越前大野 間は廃止されてました。

グリッドデザインのお手本のような誌面
七間朝市のおばちゃん図鑑。オーソドックスなレイアウトだけどゴチャゴチャしてない。

小さい写真を多用した構成は現在にも通じるものです
勝原にも足を伸ばしてます。「スキー場以外には何もない」みたいなことが書かれてますが。

今の『an・an』からは想像もつきませんが、「アンノン族」という言葉が流行したように、同誌における旅特集は当時のキラーコンテンツだったんですね。とはいえ

 だがその旅特集も、たとえば76年11月5日号「荒涼とした秋を探しに……恐山・下北半島へ」や77年6月5日号「伯備線の山奥に〝八つ墓村〟を見た!!」など、明らかにネタ切れをおこしていく。
(難波功士『創刊の社会史』p.42)

との指摘があることから、1975年ごろが脂の乗りきっていた時期なのかもしれません。

で、『an・an』といえばこれを忘れちゃならないでしょう。

見出しだけでなく、キャプションにも『ナール』が多用されています
1973年に発表された写研の書体『ナール』。山根一眞氏は『変体少女文字の研究』の中で、『ナール』が『an・an』の本文に採用されるなどして爆発的にヒット、昭和40年代末の時点で変態少女文字の手本になったのは想像に難くない、としています。もっとも、大塚英志氏はその指摘を

たとえば女性誌にも「週刊女性」と「アンアン」というまったく傾向のちがった媒体があり、ナール文字の普及にしても、いまだ活字の組み版が主体の「週刊女性」をサンプルとして使用したら、山根が提示したような数字は出てこなかったはずである。
(大塚英志『少女民俗学』p.51)

としているのですけれども。

ともあれ、実にステキなお宝を見せてもらったことには違いありません。KTさん、感謝!です。